直江津さんぽ
直江津
さんぽ直江津黄昏妄想散歩エッセイ 幻の岬
黄昏の散歩は、私にとって特別なものだ。散歩といっても、それは健康のためではないし、まして決まった道順と距離を、定刻通りに規則正しく歩くわけでもない。
黄昏の散歩は、迷うためにある。
道を失い、居場所が分からなくなり、次の角を曲がって現れる路地が「この世のどこにも属さない場所」のように赤い光線に照らされる時、私はありありと「世界」を感じる。
私にとって昼の世界は習慣と条件反射で生きる場所だ。目の前に次々と現れる「世界」に処理するために、私は全自動の存在となり、私の視力は弱まってゆく。
「弱い視力」で見る昼間の世界は、見えない膜で覆われていて、いくら拭いても取れない硝子の汚れのように半透明に曇っている。反面、夜になると、闇が思い出したくもない亡霊や悔恨を溢れ出させ、世界は脈絡のない記憶の洪水で水浸しになる。こうなれば、ありありとした世界は記憶の洪水の下に隠されてしまう。私が、ありありとした世界を見ることは、実は稀なのだ。
黄昏は昼と夜の狭間にある。
その狭間の短い時間に「世界」は張り付けられていた「意味の包装紙」を剥離させ、どこでもない「ここ」として「所在不定という所在」になる。
所在不定という所在は、不定であるからこそ、蜘蛛の巣のような「意味」の鎖を断ち切ることが出来る。そしてただ「ありありと在る」ものとして、実に新鮮な相貌を現し始める。
このような黄昏の「迷うための散歩」で、私はありありとした今だけでなく、ありありとした過去も見たいと思う。
ありありとした過去とは、ただ失われたもの、いまは見ることが出来ないものを妄想することを指すのではない。ありありとした過去は、実は今の世界の至る所に露出している。それは崖であり、坂であり、低地であり、川の痕跡である。古木であり、藪の奥であり、湿気であり、湧水である。化石であり、鉱物であり、砂鉄である。あるいは碑文であり、石塔であり、墓石である。
そのような露出を頼りに過去をたぐり寄せ、今は見えない川や、入江や、湾や、そして人間を幻視することは、決して夢想遊戯ではない。その幻視世界は、時間軸の中での所在不定の所在として、むしろありありとした存在感を見せつける。
たとえば黄昏の散歩で、縄文海進のころの透明な海水を腰まで感じる時、私の目前の崖には波が現れ、私の周囲には魚が群れる。私は幻の波打ち際に上がり後ろを振り返る。
そこには新興住宅地が広がるのだが、同時にそれらの家々を透かして、広い海原と折り重なる波濤が浮かび上がってくる。
このような幻視が可能なのは、やはり黄昏という「狭間の時刻」が持つ力による。そして、海辺の町に住む私は、黄昏の散歩で、とうとう「幻の岬」を見つけた。
私が住むのは上越市・直江津地区である。
上越市は海に面した広い平野があり、平野の周囲を半円形に山地が取り巻いている。そしてその山地の西の端から海岸線と並行して標高13メートルほどの丘が、2キロメートルほど平野に突き出している。
その細長い丘の尾根線に立ち、丘の突端、東のほうを向くと、左側には日本海が広がり、右側には平野が広がる。そして突端そのものは直江津の町の中央部まで突き出し、そこで突然崖となって終わる。これが幻の岬である。
幻の岬は、富山県境から続く広大な西頸城山地の東の端に位置している。その幻の岬の稜線を大まかに説明すると以下のようになる。
岬の稜線は、行基開祖と伝わる岩殿山から始まり三ノ輪台へと下る。そして五智公園山頂から白山神社、愛宕神社、居多神社へと続き、親鸞流罪地として名高い五智国分寺あたりから平野へ突き出してゆく。さらに国府の里、諏訪神社、水族館と岬は続き、日野宮神社、夷稲荷神社をへて、最後は大神宮へ至る。そして大神宮の参道の急な崖で岬は終わり、そこからは先は広大な頸城平野が巨大なカルデラ低地のように広がって見える。このように、幻の岬には二キロほどの稜線上に九つもの神社や寺が数珠つなぎに連なっている。
かつて突端の大神宮境内の崖下には、参道沿いに多くの店が軒を連ねていたらしい。さらに、そこから二百メートルほど歩けば、関川河岸に出るのだが、そこは鴎外の小説で有名な『山椒大夫』の舞台である。かつてそこにあった応化の橋の下で、安寿姫と厨子王丸、そして母と乳母が人買いにさらわれたのだ。
さて、これが黄昏散歩で見つけた「幻の岬」の概要であるが、私は、その岬はあながち妄想でもないと思っている。いま説明した「岬」はただの砂丘ではない。それは地山である。
その証拠に、たった十数メートルの標高にもかかわらず「岬」の各地からは水が湧いている。
五智公園の中、養爺清水、鏡池、浜善光寺入口石碑近く、直江津簡易水道発祥の地の魚藍観世音の場所、あるいは府中八幡境内崖の湧水など、岬の「内海側」には随所に「湧水」があるのだ。
いまから六千千年くらい前をピークとして、氷河期を終えた地球が温暖化した時期がある。
今より三度くらい平均気温が高く、日本あたりの海面は今より3~5メートル高かったらしい。これを縄文海進という。
その時代、黄昏散歩で見つけた「幻の岬」は、本当に海に細長く突き出た岬だったはずだ。
頸城平野は、今でも標高ゼロメートルから二メートルくらいの範囲が広大に広がっており、さらに六千年間の河川による堆積や妙高山噴火の土石流堆積を差し引けば、広大な平野すべてが巨大な湾状の内海だったことになる。(※余談だが、太古の千曲川/信濃川は、長野市から上越市へ流れ海に注いでいたそうだ。)
では、縄文海進時代、現在の頸城平野が広大な「湾」だったころ、たとえば湾の西側の海岸線はどのへんかと言えば、おそらく今の加賀街道あたりが波打ち際になるのだろう。
この大きな湾は、入り口から十数キロも奥に入り込んでいたかも知れない。かつての関川河口は、今の新幹線上越妙高駅あたりかも知れない。
そして米山の麓から柿崎をへて黒井まで、総長二十キロメートル、標高五十メートルの大砂丘が広がっていただろう。その大砂丘は、米山の麓から伸びる巨大な砂嘴として、頸城湾と外海の間に横たわっていただろう。

このような妄想の時間旅行をしながら、黄昏散歩をするのは楽しい。見えない海水や波打ち際、広大な湾を感じながら歩くのだ。
五智国分寺坂下の蓮池あたりは、すでに波打ち際だ。葦原をくぐリ抜けると穏やかな内海が広がる。水は透明で無数の魚が泳いでいる。広大な湾に、雪で白く輝く妙高山や火打山が映っている。焼山はまだ存在しない(新潟焼山は三千年前に誕生した新しい火山)。
私は波打ち際、すなわち加賀街道を北に向かって歩いてゆく。やがて浜善光寺入り口あたりから「岬」の斜面を登り始める。
岬は鬱蒼とした照葉樹の原生林である(その情景が少し分かるのが、親鸞上陸の地・見真堂の海側の藪であろうか)。あちこちに綺麗な清水が沸き、小川が流れている。私は清冽な清水を手ですくって飲んでみる。鳥の声が響き、波の音がそれに混じる。
私はさらに斜面を上り、岬の稜線(水族館あたり)へ出る。いきなり日本海から強い風が吹きつけて轟々と波濤が響く。
右手には広大な湾、左手には日本海が広がり逆巻く波が打ち寄せている。反対に広大な湾は湖面のように静かで、夕日に染まる関田山脈から米山までをパノラマのように水面に映している。
なんという絶景!私はしばし立ち止まり、稜線の頂きから右を見たり左を見たりする。
しばらくして、私は再び東に向かって岬の稜線を歩く。日野宮神社から夷稲荷神社へ。
そしてとうとう突端の大神宮に辿りつく。そこで私は息を呑む。
そこは針の先のような岬の先端の崖である。右には広大な湾、左には外洋、そして目前には湾の入り口を隔てて大砂丘が横たわる。満潮の日本海から横一列の長い波濤が、幾重も湾に押し寄せる。突然、眼前の海にイルカの大群が跳ね上がる。追われた数千ものトビウオがいっせいに海面から飛び上がり、夕日に羽を光らせながら数百メートルを滑空してゆく。風は轟々と吹き渡るのみである。今や日没間際の夕日はすべてを赤く染めてゆく。
これが、私が「黄昏妄想散歩」で大神宮の境内から東を眺める時の幻影である。私はいま「幻の岬」の先端にいるのだ。
妄想の時間旅行は楽しい。
六千年前。ヨーカドーも、直江津駅も、労災病院も、小学校も、郵便局も、みんな海の中である。
やがて太陽は完全に沈み、風がおさまる。空が群青になる。湾を隔てた米山の上から巨大な満月が登る。満月は海面を照らし金色の光の道が現れる。その道は大きな湾の入り口を渡って私の立つ岬まで続いている。月明かりの海面ではいまだにイルカの大群が跳ねている。
ここは日本の直江津である。
しかしわずか六千年前には、本当にこの幻想のようだったかも知れない。そしてその時代にはちゃんと人間(縄文人)がいたのだ。彼はこの幻影を本当に見たのだ、と、そう思う。
羨ましいと思う。私は「彼」になったつもりで再び歩き始める。
岬の南斜面を下り、国体道路あたりまでくると、風が静かになり外洋の音が小さくなる。
さらに真行寺方向へゆるい坂を下ってゆく。ニューハルピンを過ぎたあたりに、波打ち際がある。ちゃぷんちゃぷんと音が聞こえてくる。
私は、足首から膝へと海の中へ入ってゆく。やがて足が立たなくなり、真行寺手前あたりから私は泳ぎ始める。水を掻く手が作る波が月明かりで光る。
さらに泳いでゆくと水底に小さな光が見える。私は大きく息を吸い込み海中に潜水する。
三メートルほど潜ると、そこには扉があり、私はそれを開けて光りの中へ入ってゆく。
そこはつまり、いつもの居酒屋である。
直江津の黄昏散歩で見る幻影は、あながち捨てたものでもない。少しの想像力があれば、こんなふうに愉しいのだ。
界面上昇シミュレーションによる「岬」と「頸城湾」

