推し直ナビとは?
ようこそ直江津へ
ひょんなことから、偶然直江津に来てしまった皆さん、ようこそ。
直江津ってどんなところですか?何もない街?寂しい街?それともノスタルジックな街?
このサイトでは、直江津の良いところから自虐ネタまで、あらゆる直江津をご紹介していきます。
せっかく縁あってこの地に来ていただいた皆さま、ぜひ直江津をご堪能ください。
概略
Outline
直江津が初めて史書に見られたのは、奈良時代の天平宝字6年(762年)。「水門都宇」として記載があります。
慶雲3年(706年)には越後国府が置かれ、当初の位置は定かではありませんが国分寺も建立されました。
古くより湊町として栄え、室町時代の「廻船式目」という法規集には「江澗」または「今町湊」として三津七湊のひとつに数えられています。
上杉謙信公など歴代の有力者にも庇護され、「御館の乱」で有名な「御館」もこの地にありました。
江戸時代はじめには春日山城より城が移され、7年間だけ存在した幻の城「福島城」が建てられました。
高田に城が移ってからは街は衰退しますが、近代に入り鉄道が敷かれ、工業地帯となり、港を中心に発展してきました。
そんな深い歴史を持つ「直江津」をちょっと違った目線から見て感じられるサイトを──これが「推し直ナビ」の目的です。
スマートフォン片手に、マニアックな直江津を歩いていただければ幸いです。
親鸞
Shinran
鎌倉時代、浄土宗の宗祖法然を師とした親鸞が、「承元の法難」により僧籍を剥奪され流罪となりました。
親鸞が配流されたのが、越後国府、現在の直江津でした。
居多ヶ浜に上陸した親鸞は、罪許されるまでの4年とその後常陸国(茨城県)に向かうまでの3年、合わせて7年を過ごしたと言います。当初は越後国分寺(五智国分寺)の「竹の内草庵」で暮らし、その後恵信尼と出会い結婚したと言われています。(諸説あり)
国分寺近くには、親鸞が参拝して一夜にして片葉になったとされる越後七不思議のひとつ「片葉の芦(かたはのあし)」がある居多神社や、自身の像を彫るために鏡にしたと言われる「鏡池」、本願寺国府別院は恵信尼と暮らした「竹ヶ前草庵」の跡地に建立され、境内には説法の際に親鸞が袈裟を掛けたとされる「袈裟掛けの松」があったりと、親鸞聖人の足跡をところどころに感じることができます。
文人
Literati
古くから栄えた直江津は、文化の街でもありました。
正徳5年(1716年)に伊勢(三重県)の俳人涼蒐(りょうしゅう)が立ち寄り句会を開き、その句を額に仕立て八坂神社に奉納しました。その中には、松尾芭蕉とも親しかった今町の俳人・陸夜(りくや)の名もあります。
松尾芭蕉は元禄2年(1689年)に立ち寄り、「文月や 六日も常の夜には似ず」という句を詠みました。
江戸時代の狂歌師・千代垣素直(ちよがきすなお)は直江津の出身で、江戸の師にも賞賛され有望でしたが若くして亡くなりました。近年、五智国分寺にて狂歌が彫られた石碑が見つかりました。
明治に入ると鉄道が敷かれた事もあり、多くの文豪・文化人が直江津を舞台にした作品を残しています。
林芙美子は、直江津名物「継続団子」を食べ生きる希望を取り戻したことを「放浪記」に記しています。森鴎外は説話「さんせう太夫」をもとにした小説「山椒大夫」にて直江津を描いています。また、日本のアンデルセンと称される童話作家・小川未明は、直江津の海や港の風景に影響を受けた作品を多く残しています。尾崎紅葉も療養の旅の途中でこの地を訪れ、当時あった「三宜楼」にて、小川未明や相馬御風に歓待を受けたと言います。
文人・文豪に焦点をあてて、直江津を巡ってみるのも良いかもしれません。
いろいろな直江津をお楽しみください!