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直江津さんぽ

直江津
さんぽ
歴史を辿る散歩 平和記念公園(直江津捕虜収容所跡地)

荒川橋の東側、古城橋との間に、平和記念公園があります。
ここは第二次世界大戦時の捕虜収容所跡で、現在は公園が整備されています。

■平和記念公園は戦後50年の節目である平成7年10月に直江津捕虜収容所跡地に整備され、平成12年4月には平和記念公園展示館が開設されました。館内は1階~2階にかけて、直江津捕虜収容所に関する資料や平和記念公園展示館整備までの交流のあしあと、また開設に携わった上越日豪協会の活動に関する資料などが展示されています。(無料)

■日本軍は、太平洋戦争開始後、アジア各地の兵士を日本国内91か所の捕虜収容所に収容し、工場や炭鉱などで働かせました。直江津では、古い塩の倉庫を改造した捕虜収容所に300人のオーストラリア兵を収容しました。その冬、強い寒波や飢えで、60人が病死しました。
その後さらに、イギリス、アメリカ、オランダなどの捕虜を加え、収容された捕虜は700人にものぼりました。 終戦後、当時の収容所職員15人が裁判でその責任を問われ、そのうちの8人が悲痛な遺書を残して刑死しました。このように上越市にも、戦争がもたらしたむごく、悲しい歴史があったのです。昭和53年、オーストラリアの元捕虜から届いた一通の手紙がきっかけで交流が始まり、終戦から50年経過した平成7年に、世界平和と友好を願う場所にしようと、市と市民が協力して「平和記念公園」が完成しました。

(上越市HPより)

直江津捕虜収容所事件

■直江津捕虜収容所事件とは、太平洋戦争中に上越市に所在した東京俘虜収容所第四分所においてオーストラリア人捕虜が虐待を受けた事件。戦後、収容所の警備員8名が捕虜虐待を理由にBC級戦犯とされて、横浜軍事法廷にて死刑判決を受けて処刑された。

■直江津捕虜収容所は、1942年12月7日に新潟県中頸城郡直江津町の信越化学工業の工場内に開設され、1943年2月、中頸城郡有田村春日新田(現・上越市川原町)に移転し、1945年9月に閉鎖された。終戦時収容人員は698人で、内訳はアメリカ人兵士338人、オーストラリア人兵士231人、イギリス人90人、オランダ人39人であった。
収容されていたオーストラリア人捕虜300名のうち60名が、1942年12月から翌年の3月まで続いた大寒波が原因で肺炎、栄養失調、脚気などを起こし、病死した。アメリカ人捕虜1人は急性心不全で1945年7月に死亡。

戦後、収容所の警備員8名が捕虜虐待を理由にBC級戦犯とされて、横浜軍事法廷にて死刑判決を受けて処刑された。その他、終身刑4名、禁錮40年、20年、2年が各1名であった。また、裁判では当時捕虜にゴボウを使用した料理を提供したところ、「木の根を食べさせられた」として、これは虐待であると主張された。

■参考文献 上坂冬子『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』文芸春秋社、1986年。

上越市とカウラ市(オーストラリア)の交流

直江津捕虜収容所には多くのオーストラリア捕虜が収容され、多くの人が亡くなりました。また、オーストラリアのカウラ市には、かつてカウラ捕虜収容所があり、多くの日本兵が収容されていました。カウラ収容所では日本兵の集団脱走事件が起こり多くの人が亡くなりました。また、ダーウィン襲撃の際に戦没した日本兵、そしてオーストラリア各地で拘留中、及び他の収容所で収容中に死亡した日本人の遺骨も含めて、カウラ日本人戦没者墓地が作られました。現在はオーストラリア戦没者墓地管理委員会が墓地の管理をしています。

カウラ市と上越市は、双方に捕虜収容所があり、双方で互いの国の捕虜が亡くなった歴史により、二度とこのようなことを起こさないという決意によって、平和に向けた交流を行っています。カウラ市長をはじめとする訪問団が来越し、かつての直江津捕虜収容所跡地である平和記念公園などを訪れました。カウラ市長は「戦争により両市で起きた悲劇を経験し、私たちは永続的な友情を築き、許しと和解を世界に示してきた。両国間に再び戦争を起こさないよう努力しましょう」と述べました。また、上越からも使節団がカウラ市を訪問し、慰霊祭で献花を行いました。上越市とカウラ市は交流を継続し、市職員の相互交流事業も行っています。

 

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