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直江津さんぽ

直江津
さんぽ
文学の中の直江津散歩 2 森鴎外『山椒大夫』(安寿と厨子王)の直江津

森鴎外(もりおうがい) 1862~1922 60歳没

東京都三鷹市の禅林寺にお墓がありますが、墓碑銘が「森林太郎」と本名であることと、向かいに太宰治の墓があることから気づかない人も多いです。

むろんお供えやお線香も断然、太宰のほうが多いです。すこし気の毒。

『山椒大夫』(さんしょうだゆう)は、説経節「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説です。

中世の芸能であった説経節のひとつ「さんせう太夫」を原話として執筆され、1915年(大正4年)森鴎外53歳の時に「中央公論」に掲載されました。以下あらすじ

 岩城(福島)の判官、平正氏の御台所とその子安寿姫と厨子王丸が、岩城(福島)から筑紫へ左遷され消息が途絶えた父を尋ねて西へ向かう途中、越後の直江の浦で、人買いに騙され親子離れ離れに売られてしまう。母は佐渡に、姉弟は丹後の山椒太夫のもとに売られ、奴隷として扱われる。耐えかねた姉の安寿は弟を脱走させ、自らは入水自殺をとげる。脱走した厨子王は守本尊により救われ、時の関白に見いだされて身分を回復する。やがて丹後国守となった正道(厨子王)は、丹後の人買いを禁止する。そして佐渡に渡り、町から離れた農家の庭先に母親を見つけだす。母親はやつれ目も見えなくなっていた。厨子王は絶句しながら守本尊の地蔵菩薩を額に押し当て母の前にひれ伏す。ふいに母の目から涙がこぼれ落ちると閉じていた目が開き、母は目の前の厨子王の名を叫ぶのである。

山椒大夫より抜粋

◆越後の春日を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十位の女中が一人附いて、草臥れた同胞二人を、「もうじきにお宿にお著なさいます」といって励まして歩かせようとする。(中略)

◆荒川に掛け渡した応化橋の袂に一群はきた。潮汲女のいった通りに、新しい高札が立っている。書いてある国守の掟も、女の詞に違わない。(中略)

◆ここは直江の浦である。日はまだ米山の背後に隠れていて、紺青のような海の上には薄い靄が掛かっている。(中略)

◆一群の客を舟に載せて纜を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で、客はゆうべの大夫の家に泊った十従四人の旅人である。(引用終わり)

◆文中に出てくる、直江の浦の荒川(あらかわ)にかかる応化橋(おうげのはし)とは? ? ? 現在の上越市直江津地区で関川(旧荒川)にかかる「直江津橋」のこと。

安寿姫と厨子王丸の供養塔

供養塔脇の説明文(上越市による)

 この説明文は上越市によるもので、結構むかしのものですが何年にできたか書いてありません。まあ、上越市になってからは間違いありませんが。なので説明文に「今から九百二十年前」と書いてありますが、肝心な「今」とはいつなのかわからないので「九百二十年前」もわかりません。また、山椒大夫は実話ではないのですが、さも実話のように説明しているところが昭和っぽいです。また、あらすじの説明もかなり雑です。こういうところが昭和の適当な感じが出てていいですね。この看板も「昭和遺産」のひとつとして鑑賞してくだされば幸いです。

説明の内容は以下です。※高田市と直江津市が合併して上越市ができたのは1971年です。

由来

今から約九百二十年前、陸奥岩城の国信夫郡の国守岩城判官正氏は悪人の讒言により筑紫(九州)に流されました。左遷されていた時、妻と召使いの姥竹は安寿姫(十四才)と厨子王丸(十二歳)のニ子を連れて岩城(福島)からはるばると父を尋ねて行く途中、この直江の津の應化の橋の袂で山岡太夫にだまされて母親と姥竹は佐渡の二郎に、安寿姫と厨子王丸は越中の人買、宮津の三郎に売られました。知らずにいた四人も港を出ると北と西とに漕ぎ別れていく舟にそれと気付き、子を呼ぶ母、母を呼ぶ子、その悲嘆のうちに身を投げた姥竹を土地の人々が厚く弔ってここに塔を建てました。その後、安寿姫は悲しみの余り沼に身を投げ、死んでしまいました。 そこで姥竹の塔の脇に又、小さな塔を建てて弔いました。厨子王丸は関白師寛に用いられ丹後の国守となって佐渡にいた母を迎えてこの津を上った時、土地の人々は温情に感泣し二人の塔に供養したと言われ、それから人々の手向ける香華が今も絶えないのであります。

安寿姫と厨子王丸の供養塔

供養塔脇の「山椒大夫」についての説明文

山椒大夫 鴎外森林太郎

「山椒大夫」は、説経節の「さんせう太夫」に想を得て書かれたといわれていますが、「直江の浦」つまり直江津の情景が、より細かく描かれています。鴎外は明治十五年、軍医として新潟県を訪れて高田に宿泊、直江津を徒歩で通過しています。「北游日乗(ほくゆうにちじょう)」という日記には、加賀街道の景色やまちで出会った人々のことが漢詩に残されていますので、このときの印象が物語のなかに強く反映されたようです。(原本所蔵・島根県津和町森鴎外記念館)

三八朝市周辺まちづくり協議会

応化橋

応化橋、現在の直江津橋(なおえつばし)は、上越市川原町 と 中央1丁目の関川に架かる橋。橋長237.9メートル。桁橋。日本百名橋に選出されています。

『山椒大夫』では、安寿と厨子王たちがこの橋の下で山岡太夫と出会い、騙されて人買いに売られてしまいます。


関川河口近くから見る冬の直江津橋

晴れた日は、直江津橋の向こうに、頸城連峰の2000メートル級の雪山が見えます。海岸近くから見る山々としては結構な絶景です。

左から、妙高山(みょうこうさん・2454)・火打山(ひうちやま・2462)焼山(やけやま・2400)。

妙高山と火打山は日本百名山で、焼山は活火山です。1974年に大きな水蒸気爆発を起こしました。

直江津橋(なおえつばし)

◆古来より関川の河口部は直江津の湊が開かれ、同地付近に北陸道が関川を渡る橋としていつの頃からか※応化橋(おうげのはし)が架けられていた。

◆説話さんせう太夫では、安寿と厨子王丸とその母が、この橋の辺りで連れ去られたとされている。近年には森鴎外の小説山椒大夫で広く知られるようになった。

◆長尾景虎(上杉謙信)が1548年(天文17年)に越後国守護代になり、春日山城に入ると、交通整備に乗り出し1549年(天文18年)に荒廃した応化橋(府内大橋・府中大橋)を再建した。景虎は管理を奉行の庄田定賢に行わせ、維持費のため僧・遊人・盲人などを除き橋銭を課した。御館の乱で崩れた橋を上杉景勝が再建。豊臣政権下において堀秀治が春日山城主になると、関川右岸にて福島城の築城に着手した。福島城築城と共に直江津と連絡すべく現在の荒川橋のやや上流付近に応化橋(往下橋)を架けた。

◆1610年(慶長15年)堀氏が改易されると、松平忠輝が福島城に入ったが、1614年(慶長19年)に福島城を放棄して高田城を築城すると、高田の発展のため応化橋も破棄された。

架橋を出願した者もいたが、高田藩内で意見が割れ、結局明治になるまで架橋されることは許されなかった。以後、直江津の荒川(関川)には、2か所の渡しが設けられ、上の渡しは現在の信越本線の荒川橋梁より上流側にあり、下の渡しは現在の荒川橋よりやや下流側を渡っていた。応化橋が破棄されたため、北陸街道を利用する者も直江津から高田まで約6キロメートルの迂回を強いられ、直江津の発展は立ち遅れた。

◆1871年(明治4年)、荒川の河口部の上の渡し付近に再び橋が架けられ、平安時代の和歌に由来する名古の継橋の名で出願され、完成後は直江津橋と呼ばれた。翌、1872年(明治5年)に荒川橋として改めて架橋の許可を得て、11月に橋長174 m、幅員5.5 mの木橋が竣工したが、1897年(明治20年)流失した。同年仮橋を架けるも1889年(明治22年)これも流出する。直江津橋は1899年(明治32年)に現在の位置に共同出資による銭取橋(ぜんとりばし)として架けられた。なお、荒川橋は1902年(明治35年)に現在の位置に架橋されている。直江津橋はその後、1909年(明治42年)6月に橋長139.6 m、幅員4 mの木造方杖板橋に架け替えられた。1979年(昭和24年)に橋長140 m、幅員4.5 mの新橋に架け替えられたものの、1934年(昭和9年)に既に永久橋となっていた荒川橋と異なり、この橋は木造の土橋であった。関川の引提に伴って架替に迫られ、橋梁管理者の県でも拡幅計画があったことから合併施工として、建設省北陸地方建設局長と新潟県知事間で1981年(昭和56年)に協定を締結した。施行主体は建設省とし、総工費17億円は両者で分担した。架設にあたっては原位置での架替のため、仮橋を設置後、旧橋を撤去し新橋を建設するものとした。仮橋架設では事業費削減のため阪急電鉄での中古桁を購入し再利用している。新橋は1982年度(昭和57年度)に下部工に着手し、上部工は1986年度(昭和61年度)に着手、1988年(昭和63年)に供用された。

ウィキペディアより抜粋・一部編集

※応化の漢字表記は、他にも往下、逢岐、王源、応解、逢岐、大笥などがある

 

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