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直江津さんぽ

直江津
さんぽ
歴史を辿る散歩 親鸞上人流罪の地 五智歴史地区

親鸞とその流罪旧跡


親鸞上人上陸の地
居多ヶ浜見真堂から見た日本海の落日

数多くの文人や思想家に強い影響を与えた親鸞
その親鸞の思想形成に強い影響をもたらしたのは、流罪の地(直江津)で日々眺める「海」でした。

―しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。このゆえに禿の字をもって姓とす―

(親鸞・教行信証)

当地での居住期間は、承元元年(1207年)親鸞35歳~健保二年(1214年)親鸞42歳の七年間。

 第一主題の提示である。第一ヴァイオリンの旋律である。この旋律の響きを、親鸞はいったいどこで手に入れたのか。荒れ狂う大海原と、逆巻く大波を突っ切って走る大船のイメージが、いつからかれの脳髄に宿るようになったのか。言うまでもなく、若き日におけるかれの流罪体験を思わないわけにはいかない。都を追われ、身を小舟に託して日本海を渡ったときの記憶、そのまま越後に土着して世を忍ぶ生活を送った時代の体験が、おそらくかれの人生の行先を決定したからであったに違いない。

山折哲夫『教行信証を読む』より


親鸞上人上陸の地・居多ヶ浜の冬 波濤が打ち付ける荒海


流人の宣告状(写し)光源寺蔵(五智)

「沙門源空之門人釈綽空日当被専修念仏興行而處遠流者也」と、罪状が記されている。国司あてに、流人・藤井善信(ふじいよしざね)を送るという書状である。建永二年二月二十八日の日付がある。

※沙門源空は法然上人。その門人である釈綽空は親鸞、また藤井善信は僧籍を剥奪され還俗させられた親鸞へ当てられた俗名。


日本の碩学に愛された親鸞(『親鸞の本』学研・より抜粋)

倉田百三(作家)『出家とその弟子』の上演について」/『新装倉田百三選集』1所収

私の書いた親鸞(しんらん)は、どこまでも私の親鸞である。私の心に触れ、私の内生命を動かし、私の霊の中に座を占めた限りの親鸞である。


武者小路実篤(作家)「親鸞結婚」/『武者小路実篤全集』10所収

「本当にね。なぜ殺生(せっしょう)をしなければ生きてゆけないように出来ているのでしょう。殺されるものはたまりませんわね」
「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」親鸞には小鳥に食われる蟲(むし)を見て思わず云うのだった。すると、妻も思わず、「南無阿弥陀仏」と云った。


夏目漱石(作家)「模倣と独立」/『礎石文明論集』所収

親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、一方では著しき自己の代表者である。


与謝野晶子(歌人)「親鸞上人の伝記」/『与謝野晶子全集』15所収

宗教家としての親鸞の偉大を認める私は、その在来の伝記の七八分を占めて居る虚偽と曖昧とを遺憾に思う。


武田泰淳(作家)「親鸞上人架空会見」/『武田泰淳全集』15所収

そもそも宗教とは、人類の心を守るためにあるのであって、一教団の利益を守るためにこしらえられたものではござらぬ。


内村鑑三(思想家)「我が信仰の祖先」/『内村鑑三全集』13所収

誰が信仰の自由を愛する者にして親鸞聖人を愛せざるものあらんや。


西田幾多郎(哲学者)「愚禿親鸞」/『西田幾多郎随筆集』所収

他力(たりき)といわず、自力といわず、一切の宗教は此(この)愚(ぐ)禿(とく)の二字を味(あじわ)うに外(ほか)ならぬのである。


福澤諭吉(思想家・教育家)「親鸞主義の復活」/『時事新報論集』9所収

社会の表面に徘徊(はいかい)出没して運動奔走など事とする大坊主小坊主の輩(やから)を眺むれば、殆(ほと)んど絶望の外(ほか)なきに似たれども、千百年来深く人心に入りたる親鸞主義は、俗僧(ぞくそう)輩(ばら)の腐敗の為(た)めに絶滅す可(べ)き非(あら)ず。


三木清(哲学者)「親鸞」/『三木清全集』18所収

かくして彼が非僧(ひそう)非俗(ひぞく)破戒(はかい)の親鸞と称したことは、彼の信仰の深い体験に基くのであって、単に謙遜のごときものではない。それは人間性の深い自覚を打ち割って示したものである。外には悟りすましたように見えても、内には煩悩の絶えることがない。それが人間なのである。


岡本かの子(作家)「宗教の偉力」/『岡本かの子全集』10所収

私は浄土真宗以外にも色々の仏書を繙(ひもと)きました。けれど、空気の如く日常呼吸し、日常坐臥(ざが)の友としているのは、親鸞聖人の精神がその中心となっているのであります。


高橋新吉(詩人)「親鸞の仏教」/『高橋新吉全集』3所収

「教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)」には、仏教の精髄(せいずい)が説かれている。これを無視して何を言ったところで、親鸞に関する限り、無意味であると、私は思うのである。


亀井勝一郎(詩人)「歎異抄について」/『亀井勝一郎全集』8所収

親鸞に直接出会った人々は、とらえ難い何ものかにぶつかったとも考えられる。それは親鸞の底しれない孤独であったかもしれない。言葉としてあらわそうと思っても、絶対にあらわしきれない極度に微妙なものの上に、親鸞は生きていた人である。


鈴木大拙(禅宗学者)『日本的霊性』より

この人が感ずる物のあわれが日本的霊性の律動である。この超個の人が本当の個己である。『歎異抄』にある「弥陀(みだ)の五劫思(ごこうし)惟(ゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけ

り」と言う、この親鸞一人である。


吉川英治(作家)『親鸞』序文

青年ごろから、自分の思索にはおぼろげながら親鸞がすでにあった。親鸞の教義を味(み)解(かい)してというよりも―――親鸞自身が告白している死ぬまで愚痴(ぐち)鈍(どん)根(こん)のたちきれない人間として彼が―――直ちに好きだったのである。


吉野秀雄(歌人)「親鸞上人画像」/『吉野秀雄全集』4所収

こんなに信頼できる顔の人があろうか。わたしは歎異抄をよむとき、いつもこの「鏡(かがみの)御影(ごえい)」を目に浮かべ、ああ、あの面持ちでこのことばはいわれたのだなとうなづく。


丹羽文雄(作家)『親鸞』あとがき

親鸞を書きあげてから日が経つにつれて、親鸞というひとの大きさがあらためて感じられるようになった。私はその大きさの麓の一角にようやく辿りついたという気持ちである。


椎名麟三(作家)「親鸞聖人と私」/『椎名麟三全集』20所収

私は、端的(たんてき)に親鸞が好きだというより申し上げようがない。動機は、「歎異抄」を読んだことだ。その本に感じられてくる親鸞のふかい信仰が私の心を動かしたからだ。(中略)あの人間像を誰が否定できるだろうか。少しでも本が読めるのなら、どんなふかい信仰と人間愛が、その人間像を生かしているかという事実がその文章から迫ってくるではないか。


遠藤周作(作家)「小さな疑問」/読売新聞社『親鸞と真宗』所収

あわれみ、手をさしのべ、共に苦しんでくれる。そのように神や仏が人間を愛し、許し、共に苦しむ宗教――それが母の宗教である。(中略)親鸞という稀有の日本仏教改革者は、仏教を日本人の宗教心理にとりわけ適応した「母の宗教」に変えた聖人であるとさえ考えている。


三國連太郎(俳優)「狂ったサルはいやだ」/現代評論社『親鸞は生きている』所収

私は親鸞さんの偉大さは、「人間を通して人間より以上の能力を持つ」という伝説に刃向かっていった、ただひとりの革命家であるというふうに理解しているのでございます。


野間宏(作家)『親鸞』より

さらに手に入れることのできる限りのあらゆる経典をたどりつくし、釈尊(しゃくそん)の見出したとほとんど同じところへとひとりでに到着したと私は考えているのである。親鸞がたずねあてすわっていたところは釈尊が修行のためにすわっていたと同じ金剛座(こんごうざ)であると言うこともできよう。


井上靖(作家)『利休と親鸞』/『井上靖全集』25所収

親鸞について、現在の私が一番興味を持っているのは、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」を筆写していた頃の若い、おそらく若かったに違いない頃の、朝から晩まで経典の勉学に自分を駆り立てていたとしか思われぬ親鸞のきびしさがある。それからもう一つは、老いた親鸞の息子の善鸞(ぜんらん)を義絶する態度のきびしさがある。善人も救われる、まして悪人をやと説いた親鸞は、例外としてわが子だけは、許さない宣言をしているのである。


吉本隆明(思想家)『最後の親鸞』より

眼も見えなくなった、何ごともみな忘れてしまった、と親鸞がいうとき、老もうして、痴愚になってしまったじぶんの老いぼれた姿を、そのまま知らせたかったにちがいない。だが、読むものは、本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説を、こういう言葉にみてしまうのをどうすることもできない。


吉田武彦(歴史家)『親鸞』より

「南無阿弥陀仏」の声は消えるだろう。わたしは、それをいっぺんも唱えはしない。宗教の役割も過ぎ去るだろう。わたしは、どんなに墓地にも葬られたくない。けれども、親鸞の生きた真実、かれの「生の影」は、今も、未来も、私たちの中に生き生きと、よみがえりつづけるのである。


梅原猛(思想家)『親鸞の告白』より

親鸞は私にとって、いまでも謎の思想家である。私は、大学時代、いささか懺悔しなければならないことがあり、親鸞の著作に読みふけった。それから何度、私は親鸞の著作『教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)』や唯(ゆい)円(えん)の著作、『歎異抄(たんにしょう)』を読んだことであろう。しかし不思議なことには、それらの著作を読み返すごとに親鸞は新しい面を見せ、私にとってますます巨大な謎をもつ人間に見えてくるのである。私がそのような経験をもったのは親鸞以外にはない。


湯浅泰雄(心理学者)『日本人の宗教意識』

ここにみえてくるのは、孤独の中でひとり仏に向って手を合せている親鸞の姿である。世間の一切の雑音から遠く離れて、彼岸にある仏と無言の中で向い合っている姿である。そのときに親鸞の心からは、もはやそのするどい知性も深い思索も一切消え去って、かれはひとつの無垢なたましいにかえっているようである。


五木寛之(作家)『蓮如』より

弟が急死したあと、告別の式を終えて自宅へたどりついたとき、不意に激しい感情の発作がおそってきました。自分にまだこんな涙が残っていたのかと不思議に思えるほどでした。そんな場面で、「泣くな」と強くはげましてくれるのが親鸞の声です。「彼は光に包まれて浄土へ迎えられたのだ。そのことを共に喜ぼう」と。

 

高史明(作家)『歎異抄――この永遠なる異端の書」より

わたしはカーテンを下ろした子供部屋に、終日一人座りこんだ。くる日もくる日も、子の遺骨の側で『歎異抄』と向かい合ったのである。そのわたしの心底には、もはや善とは何か、悪とは何かの問いはなかった。人間とは何かの問いもなかった。わたしは、『歎異抄』をただ読んだ。一字一字を書き写しながらだ。書き写すことで辛うじて息を継(つ)ごうとしたのである。


散歩コース例

《スタート》国府別院 → 常願寺池を巡り → 弁財天・愛宕神社・白山神社→蓮池(第一蓮池には白い蓮が咲き、第二蓮池にはピンクの蓮が咲く)→ 光源寺 → 居多神社 → 国分寺 → 養爺清水 → 親鸞聖人上陸の地 → 見真堂 → 阿弥陀来迎図のような海の夕焼け《終点》  ゆっくり巡って約2時間。

■居多ケ浜

砂丘に立つ「親鸞聖人上陸の地」の碑文。大正十五年、彦根の人が建立。
承元元年(1207年)の承元の法難で、専修念仏弾圧を受けた親鸞聖人が流罪に処せられた折、小野浦(木浦・糸魚川市)から船にのり上陸したのが居多ケ浜だと伝えられる。

■現状の標識

坂の上が「上陸の地展望台」

■上陸の地・展望台
■東屋・休憩場
■直江津ウオーキングマップスタンド
■碑文

釋浄如・大谷暢顯(おおたにちょうけん)1930~による揮毫。浄土真宗大谷派二十五代門首。現在の明仁上皇の従兄弟。「もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり」と『御伝鈔』の言葉が書かれている。

■不明・要調査
■「念仏発祥の地」の碑文

書・金子大栄(1881~1976)
新潟県高田の真宗大谷派最賢寺にうまれる。仏教思想家・大谷大学名誉教授

■片葉の葦

居多ケ浜周辺・居多神社・国府別院などに自生する葉が片方だけの葦。親鸞聖人由来の伝説が残る。

●流罪で上陸した親鸞聖人が居多神社に参拝し「末遠く 法をまもらせ居多の神 弥陀と衆生のあらむ限りは」と読んだとき、この教えに感化され葦の葉が片方だけを向いてなびいた。

●流罪の親鸞聖人が周辺で布教したが、罪人の言うことだとして誰も聞く者がいなかった。その時聖人は「結びおく、片葉の葦の後の世に、わがあと慕う小道しるべに」と読んで、かたわらの葦の葉をちぎると、その後このあたりの葦はすべて片葉になってしまった。

●親鸞聖人が関東へ旅立つ時、葦も別れを惜しみ、聖人の歩いていくほうに向かって手を合わせた。以来、葦は関東(南)に向かって葉が揃っている。(国府別院)

■親鸞聖人像
■見真堂

見真大師は明治天皇より親鸞聖人に贈られた諡号。内部には親鸞聖人の木造が安置されている。直江津・林正寺(真宗大谷派)の建立・管理

■親鸞聖人・坐像 見真堂内部
■居多ケ浜記念堂

直江津・林正寺(真宗大谷派)の建立・管理

■鏡ケ池

親鸞聖人が東国に旅立つにあたり信徒が名残惜しむのを見て、聖人がこの池の水面に自分の姿を映し、その姿坐像に彫って残したと伝わる。坐像は国分寺に現存。

■国分寺・山門(上越市指定文化財)

天保6年(1835年)建立。立木のままの柱は他に例が少ない。左右の仁王像は、天保7年(1836)の作と伝わる。正面に「安国山」の山号を掲げる。

■国分寺・経堂(上越市指定文化財)

元禄6年(1693)の棟札があり、市内最古の建物。黄檗版の一切経を収蔵。経堂土台の緑がかった石は、北前船で運ばれてきた笏谷石(しゃくだにいし)。笏谷石は福井市の足羽山で採掘される石材で、中でも越前青石は高価であった。

■国分寺・三重塔(新潟県指定文化財)

安政3年(1856)に着工したものの未だに未完成のまま。新潟県に三つある塔のひとつ。説明文アリ。

■国分寺・本堂

天台宗寺院(山号・安国山/院号・華蔵院)
聖武天皇の詔によって建てられた越後国分寺を継承するものとされ、永禄5年(1562)に上杉謙信が現在地に移転・再興したと伝えられる。以降、元禄2年(1689)と寛政6年(1794)の火災で消失し再建されたが、昭和63年(1988)に再び消失。宮大工により10年の歳月をかけ平成9年(1997)に再建された。総ヒバ造りで、鎌倉時代の様式に復元した。本尊は5体の五智如来(大日如来・薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)

■伝親鸞聖人坐像(上越市指定文化財)

竹之内草庵跡に建つ親鸞堂の中に安置。
親鸞聖人が東国に旅立つにあたり信徒が名残惜しむのを見て、鏡ケ池に自分の姿を映して像を彫り、信徒に残したと伝わる。

■竹之内草庵の碑
■親鸞聖人の足跡と伝わる石
■国分寺境内

親鸞聖人・遠流八百年記念の石碑
親鸞聖人真筆の「南無阿弥陀仏」が刻まれている。
下の写真は石碑脇の石仏群

■親鸞聖人像

由来不明。

■国分寺境内・中世石塔群(出土品)

昭和45年、現在の国分寺から200メートルほど北の地中から、造成工事中に発見された。一部には骨壷と笏谷石も見られ格式ある中世塔群。
現在は東京在住の関東管領上杉家の子孫により供養されている。

■養爺清水

竹之内草庵時代に親鸞聖人が、飲水、炊事、硯の水、筆洗い、という日常の暮らしで使っていたと伝わる清水。八百年以上涸れていないということになる。看板アリ。

■居多神社

親鸞 和歌
親鸞七不思議・片葉の葦
日の丸の名号

■本願寺国府別院(西本願寺)

本堂(市文化財)文化二年(1805年)創建、親鸞配所・竹之前草庵(たけがはなそうあん)阯(妻・恵信尼と暮らした場所)
文化2年(1805年)に信徒により本堂が創建。明治4年(1871年)に、西本願寺が土地を取得し明治9年(1876年)に「小丸山別院」と称し、昭和5年(1930年)に「国府別院」と改称した。

■本願寺国府別院・親鸞聖人袈裟掛けの松

親鸞聖人が袈裟をかけたと伝わる松。

■本願寺国府別院・親鸞聖人上陸の像
■本願寺国府別院・親鸞聖人像
■柳清水

棚木清水の井戸は、親鸞聖人が竹ケ前草庵で暮らしていた時、生活に使ったと伝わる井戸。また、この地はかつて「大場」という地名であり、上杉謙信公の跡目争いである「御館の乱」で、景虎方と景勝方が戦った「大場の戦い」の古戦場である。
前を通る道は加賀街道(北国街道)である。

■光源寺

建暦元年(1211年)創建 親鸞の弟子最信(覚円坊)によって開かれた。最信は木曽義仲の家臣で、俗名を掘徳兵衛三政と称したという。
本尊として安置されるのは、罪を許された聖人が自ら描いたと伝わる「ご満悦の御影」。これにより国府御影堂、国府御坊とよばれてきた。
他に親鸞流人宣告状(写し)など多数。境内には北信濃の武将、村上義清建立の供養塔や高浜虚子の句碑、画家東洋越陳人(江戸末期から大正に活躍)の墓などがある。


流罪の親鸞も見たはずの、居多ヶ浜崖上からの落日

 

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